私たちの美徳意識、または承認欲求から「いばらの道」を行くことを喜んで選択している人たちがいます。
すんなりと結果を手にするような道は、ラクをしている、怠けている、ズルをしているように考えています。
苦労をすることはいいことで、苦労なくして得たものを歓迎しません。
苦労の数や大きな難関を乗り越えることが、自分の力や素晴らしさを証明するものだと思っています。
私たちは、すんなりと何かを手にすることをあまりいいものと捉えていません。
楽しんで、ワクワクして、夢中になって手にすることです。
これはラクをしているのとは違います。
その過程を楽しんでやる、その過程にある試練をワクワクした気持ちで取り組んでいるのであって、いばらの道を行く人たちと同じようにやることをやっています。
ただ、楽しみながら、笑いながら、助け合いながら進んでいるだけなんです。
結果を手にするために必要なことだけにフォーカスするので、ものごとがとてもシンプルで、スムーズに流れていきます。
もちろん、大きな問題や試練がやってくることもありますが、ワクワクしたポジティブなエネルギーがあるので、あらゆる相乗効果を受け取りながら乗り越えていけます。
そのため、あっという間に、すごく簡単に乗り越えてしまったように見えます。
いばらの道はどうでしょう?
いばらの道も1つの結果を手にするために進んでいくのですが、それを達成する過程にたくさんの問題、必要以上の手間、邪魔が入ったり、人間関係のトラブル、変更を余儀なくされるような、本当は必要なかったようなトラブルをたくさん招きます。
つまり苦労するために苦労を呼び込みます。
いばらの道を選択する人の多くに「私だからこそできるんだ!」「私にしかできないこと!」というような自分がすごいということの証明のために、自分だけが乗り越えられるような苦労をたくさん呼び込みます。
わざわざ苦労や問題へ首と突っ込んでいく人もいます。
そして「私だから解決できたんだ!」「私のおかげだ!」という優越感を手に入れます。
つまり、自分の素晴らしさの証明のために、多くの問題や苦労が必要だということ。
苦労すること=経験だと思っている人もいます。
苦労を経験という美徳にしている可能性もあります。
たくさん苦労をした方がたくさん経験でき、成長すると思っていますが、いばらの道にある苦労の多くは、魂が求めている経験ではないものがほとんどです。
魂が求めていない経験をしている時、私たちはとても苦痛を感じ、ストレスを抱えます。
魂が求めている経験にある苦労は、それに向かっていく、乗り越えていく活力が魂から湧いてきます。
経験になるからと苦労ばかりをやっていると、私たちは体も心も疲れ切ってしまい、いつの間にかボロボロに傷ついてしまいます。
いばらの道は、困難や苦労ばかりの道ですから、無傷でいられません。
自分を犠牲にしながら突き進むようなもので、ボロボロの状態で結果を手にすることになるでしょう。
同じ結果を手にするために、すんなりと進む道もあれば、いばらの道もある。
どちらを選んだとしても、この結果を得るために必要な経験をし、魂を磨きます。
しかしそこにある道のりは全く違う世界になるでしょう。
私たちが歩いているこの道。
これを「良い」とか「悪い」と決めているのは自分です。
すんなりと結果を手にするのを「悪い」と言って、苦労ばかりしてボロボロになるいばらの道を進むのもいいかもしれませんが、本当に自分のためになっているのでしょうか。
いばらの道を選んでいる自分がいるのなら、少し考えてみるといいかもしれません。
実は、私もいばらの道を歩く自分を美化していたことがあります。
いばらの道を歩く自分に素敵な鎧を着せ、それを成し遂げた時の自分がどれだけ素晴らしいか!思い描いていました。
しかし、現実は、周りがすんなりといいものを手にしている時、私はいつも問題を抱え、次々とやってくるトラブルに飲み込まれていました。
そこに立つ私はもうボロボロでした。
ついに立つ気力すら湧かなくなった時、ようやく美しく描いていたいばらの道が幻想であり、自分を犠牲にするだけだと気がつきました。
いばらの道で傷ついた自分を癒しながら、もういばらの道は必要ない!と完全に断ち切ることをしました。
この決断を下してから、人間関係がガラッと変わりだしたのを覚えています。
意地悪な人、人を陥れるようなタイプの人、攻撃的な人たちと別れるようになり、出会う人々が優しくなったんです。
そしてたくさんの無駄がなくなっていき、自分のための時間が持てるようになりました。
ものごとの流れが大きく変わっていったのが、この選択を変えた時でした。
いばらの道を歩くのをやめたい!と思った方は、スピリチュアル個人セッションをご予約ください。自己価値、思い込み、親からの刷り込みなどいくつかのことが絡み合っています。
RIRI